紙幣に書かれている人物を知ろう!【紫式部】編

日記

疑惑も多いと著名な女流作家

我が国を代表する平安時代に活躍した女流作家で夫と死別した後、その文才が目に留まり、一条天皇の中宮・藤原彰子の家庭教師役として仕え、その間に有名な長編恋愛小説「源氏物語」を書いた作者であると考えられています。
考えられているというのは、時代が流れ明治期となって、「源氏物語」の新訳を書いた与謝野晶子も「源氏物語は一人で書かれた文章ではなさそうだ」と語っており、源氏物語の作者と断定できないほど疑惑のある作家でもあるからです。

また、源氏物語の登場人物に、「紫の上」「葵の上」を始め、美人で豊かな教養を持つ才女が多いのですが、紫式部本人は性格が悪く、ライバル達の批判を続け、特に同時代の女流作家、清少納言に対する敵対心はかなりのものだったとも言われます。

実は正体不明な部分が多く残る

平安の前期頃には「男もすなる日記……」で始まる「かな文字」の文学作品「土佐日記」にあるように、文学は男性がたしなむものとされていました。

その後、かな文字は親しみやすいとして女性の間にも急速に浸透して、平安中期の貴族社会では、仮に地位も名誉も金も美貌も揃っていても和歌がよめなければ無教養として、男性・女性を問わず結婚相手が見つからないような雰囲気が出来上がっていました。
そこで貴族は子弟が良い結婚相手に恵まれる様にと、競って優秀な家庭教師を雇うようになります。
才女であると評判のあった紫式部は、夫と死別したのち、一条天皇・中宮の藤原彰子の家庭教師に引き立てられます。
この家庭教師時代に、源氏物語や紫式部日記を描いたと想像されているのですが紫式部の生年月日や没年など不明点が多く、本名さえ謎のままです。

源氏物語の作者が紫式部だと思われている根拠は、紫式部日記の中に「源氏物語を褒められた」との趣旨の記述がある程度で、明確な根拠はこれ以外にないのです。
他に作者として浮かぶ人物がいないために作者とされていると言った方が正確なのかもしれません。
明治期に「新新訳源氏物語」を書いた与謝野晶子氏は、途中で文章の作風が変化しているため、作者は複数いるのではないかと語っています。
もちろん、源氏物語は長編小説ですから作風が途中で変化しただけかも知れませんが、女流作家同士、何かピンと感じるところがあったのではないでしょうか。

源氏物語の雅な世界とは程遠い人間関係

紫式部日記には、その時代に活躍する女流作家を酷評する意外な記述があり、当時の貴族社会の人間模様を垣間見ることが出来ます。
当時の日記は読み手に伝える、現代風に言えば「ブログ」みたいな媒体ですが、この日記の中で同じく彰子に仕える同僚作家のことは「褒めもせずけなしもせず」総じて中立的に記載しています。

ところが、互いに同じ天皇の妻の関係の彰子の最大のライバル藤原定子に家庭教師役で仕える清少納言に対しては「知識を見せびらかして調子に乗っているだけ」と完全に批判的に記述しているのです。
いつの時代も上司の顔色を窺い、自己保身のために他人を批判する人はいるものですね。