紙幣に書かれている人物を知ろう!【野口英世】編

医師

福島の貧しい農家に生まれた世界的に偉大な細菌学者

野口英世は1876年に福島県の田舎の貧しい農家に生を受け51才で生涯を閉じた明治、大正期の偉大な細菌学者です。
地元福島の小学校卒業後、東京の伝染病研究所で北里柴三郎博士の教えを受けるなどしたのち、アメリカのペンシルベニア大学医学部助手を経て、同国内の有名な医学研究所に所属して細菌学を探求するなど活躍しました。

研究対象は、メインとして梅毒の病原菌スピロヘータや黄熱病の原因、狂犬病、小児マヒ等の原因究明に業績を残しました。
高い評価を受ける数々の有用な論文を発表し、ノーベル賞の候補として注目されますが、51才のとき、アフリカのガーナで黄熱病の研究中に自身も罹患し他界しており、受賞は実現しませんでした。

左手に大やけどを負い苦労した少年時代

1才の時に家の囲炉裏で左手に大火傷を負い、左手が不自由なまま少年時代を過ごしますが、母親が、左手が不自由なままでは成人後に農作業で生計を立てるのは困難だと考え、英世を小学校に入れて勉強に励ませます。
当時は小学校へ進学できるのは、豊かな家に子弟だけで、英世の母親は小学校に通わせるために必死に働いたと言います。

母親の努力の甲斐もあり、英世は熱心に学業に勤しみ、10才のときには、先生の代理で授業を任されたそうですから驚きです。
小学校卒業後も進学資金に困窮するのですが、小学校の恩師が、勉強熱心で成績優秀な英世を進学させようと学費を出してくれ猪苗代高等小学校へと進学が実現します。

そして15才の時に友人達の寄付金により会津会陽医院で不自由な左手の手術を受けています。
これを機会に、自分と同様に病気やケガで苦しむ人を助ける事を職業とする医師になることを志しました。
益々学習に熱が入り、弱冠20才で医師免許の試験を取得して、医師となり、21才で東京の伝染病研究所で北里大学の創始者である北里柴三郎博士に師事し病原菌研究の道へ進みます。

アメリカにわたり注目された血清学や免疫学の研究

23才になると渡米し、アメリカのペンシルベニア大学医学部の助手の職を得て血清の研究をして高い評価を受けます。
デンマークの研究機関を経て、元のアメリカの医学研究所に移籍していますので、いかに国際的に高い評価を受けたかが分かります。
ロックフェラー医学研究所から、未だワクチンが未発見の黄熱病の病原体発見を目的として、同病が流行中の南アメリカのエクアドルへ派遣されたり、メキシコへ派遣されたりしています。

そしてアフリカのガーナに派遣して、同様の研究をしている際に自身も罹患してして他界したのです。
野口英世に対してはアメリカやフランスの大学から名誉教授・名誉博士の称号が贈られ、フランスやスペインからは勲章が贈られています。
日本においては、野口英世アフリカ賞が設けられ、アフリカにおける感染症対策を積極的に行って人類の繁栄などに資する研究を奨励しようとするインセンティブとなっています。