紙幣に書かれている人物を知ろう!【福沢諭吉】編

教育

幕末から明治維新にかけて活躍

幕末から明治新の時期に活躍した福沢諭吉は坂本龍馬らと同じ世代で、坂本龍馬が明治維新のために活躍して暗殺された生き方とは少し違い、維新後の日本の発展に大きく寄与した人物です。
慶応義塾の創始者で、身分の差をなくすために書かれた著書「学問ノススメ」が有名な他、伝染病研究や英文翻訳家としても偉大な功績を残しました。

長崎と大阪に出てオランダ語を学ぶ

中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子として生を受けますが、父親を小さくして無くしたこともあり貧しい少年時代を過ごしたようです。
しかし向上心が強かったのでしょう、14才で塾に通い始め、19才になると長崎に行きオランダ語と砲術を学んだ後、大阪に行き医師の緒方洪庵が主宰する適塾で学び、塾長にまでなっています。

23才になると、江戸の藩邸で蘭学塾を開く事になりますが、外国人が多く居留していた横浜を訪ねると、そこにいる外国人は皆、英語を使っており、諭吉がこれまで学んできたオランダが通用しないことに気づかされショックを受けます。
その時点で英語をマスターしようと志し、英語とオランダ語を対訳した辞書を片手に独学で英語を学んだと言いますから、相当な向学心を持っていたのですね。

幕府の使節として海外を視察し文化を取り入れる

そのような努力が実り、25才の時、幕府の遣米使節に志願して、咸臨丸でアメリカに渡航し、学校や病院の仕組みなどの公共的なシステムを日本に輸入しました。
そのころ国内では一般的では無かった肉食や洋服などの海外の衣食住も併せて輸入しました。
ちなみに国内で最初にカレーの食文化を広めたのも福沢諭吉だと言われており、他にも今に伝わる料理があるのかもしれません。

その後も、幕府の使節に加わり欧米各国を視察に訪れており、31才の時には、欧米諸国で視察した内容を著書「西洋事情」にまとめています。
この書籍は、知らない世界が分かる本だと驚きを持って受け入れられたのでしょう、約15万部も売れたと言いますので当時のベストセラーですね。
33才のときには、江戸・築地のオランダ語塾を芝(現在の港区)に転居して、当時の年号を使い「慶應義塾」と命名します。
塾生から定期的に授業料を徴収する形で運営される学校は日本では初めてで、これも海外文化を取り入れたのでしょう。

庶民のためにかかれた「学問のすすめ」

慶応義塾の創設だけでなく、広く教育者として偉大な功績を残しています。
名文の「人の上に人を作らず・・・・・・」で始まる名著は、貧富や貴賤に差が出来るのは、生来に決まらず、学問の有無が要因だと説きます。
「学問ノススメ」は庶民にも手が届くように、17分冊として1冊の単価を下げ、漢字にカナを振るなどして、多くの読者の支持を得て、300万部の大ベストセラーとなっています。